昭和57年4月17日 朝の御理解●④ ②
明渡 孝
御理解第6節『目には見えぬが、神の中を分けて通りおるようなものじゃ。畑で肥をかけておろうが、道を歩いておろうが、天地金乃神の広前は世界中であるぞ』
「神の中を分けて通りおるようなものじゃ」という実感が、これはどんな場合であっても頂けておれば間違いはないのですけれども、(やれもすると?)、神様を疎かにしておる場合がございます。
昨日は、あのように盛大な春のご大祭を頂きましたが、昨夜のご祈念に、この頃は夜ご祈念はご無礼しておりますけれども、昨夜は出てまいりました。そして、昨日のお届け数を調べて頂きましたら、四千六百十二名のお届けがあっておりました。いわゆる、年々歳々おかげを頂いておるわけであります。
そういう、いうなら合楽としては、たいへんなお祭りを奉仕さして頂いたわけですから、まあいうなら、てんやわんや、もうほんとに、の中に、夜のご祈念に出てまいりましたら、やっぱりみんな、先生方みんな出て来ておりますし、あら、今日の昼あんなたいへんなお祭りがあったお広前だろうかと、お教会だろうかと思うように、もうどこにもご大祭の残りというか、この雰囲気というものがないのですね。もうそれこそいつものように、やはりちゃんと夜のご祈念ができておるのを拝ませてもろうて、ありがたいなぁとこう思います。
●④はあ、大祭の後はまあ、ご直会でいっぱい機嫌で、とうとうご祈念にも出てこんじゃった。はあ大祭のいろんなもんがあちらにも散らかっておる。それをね、私は、だいたいそれが嫌いですから、もうその夜のご祈念には、「ああ、今日はご大祭があったのかな」と思うくらいに、いつもの通りにしておかなければ、だいたい私の気分がね、うん。これはもう、大祭の気分がいつまでもとっとくとが好きという先生も中にはあります。
けれども、私は、もうとにかく、今日はみなご大祭が、ここで数千人の、例えばお届けでもあるような大きなお祭りがあったとは、どこを見ても考えられないような、平日通り、いつもの通り。私は、このいつもの通りということが、ね、私の神の中を分けて通りおるような実感とはそういうことだと思うんです。●④
●②もうご大祭で、てんやわんやでとうとう夜のご祈念もできなかった、といったようなことではない。ちょうどそのことを、昨日ご祈念でお礼を申させて頂いておりましたら、雨傘、ね、雨傘の新しい間はキチッとたたまれますけれども、だんだん古くなると紙がはみ出すでしょう。ね。こうたたんでもはみ出す。というところを頂いたんです。
まあ、傘と言や「安心」ということでしょうが、その、ああいうその、キチッとたためればいいけれども、紙がこうはみ出しておるから、そこから破れるんですね。そこがまああの、まあいわゆる破れ傘になっていくわけですけれども、そういう時に、丁寧に出ておるところをまたこう、まあいうなら、陰干しをして干しあげたら、またこうね、紙を出たままじゃなく、中にこうやってたたみ込んでおくといったような心掛けが必要です。●②
例えば、なら形の上におきまして、なら昨日、合楽教会の場合は、平日通りでした。ご大祭がすんだ後も、なら夜のご祈念でもやっぱり平日通り、家族の者もみんな出て来てますし、先生方もみんな出て来て、平日通り、もうキチッとしたことである。
けれども、なおまた神様はです、ね、いうならばキチッとたたまられずにこう、紙がはみ出ておらんところはないか、出ておればそこをまたキチッとこうしておく。これは、だからみなさんの上においても、やっぱり同じことが言える。ね。
なら、昨日ご大祭であったから、というて、なら朝のご祈念にはやっぱこんなにたくさん、キチッとみなさんが朝のご祈念に参っておられるようにです、そういう信心が必要なんです。いわゆる心掛けなんです。ね。それが私は、神の中を分けて通りおるような実感というものが、ね。
この一時でも油断の、油断というとなんですけれども、まあてんやわんやの後は、いうならその、ついお粗末になったり、ね、または油断が出たりするもんですけれども、これは信心させて頂く者の心掛けとして、せっかくの頂いておるその傘を、ね、破るようなことがない心掛けが必要である。
ためにはです、それこそ「畑で肥えをかけておろうが」とこういう。ね。いうなら汚いことをしておろうが、うん、綺麗のこと、清らかなことをしておろうが、どちらにしたところで、神様のおかげの中に、ご神徳の中にある自分というものを、いつも自覚ができておらなければならない。
もう昔でしたけれども、ある下の病気の方がお参りをして、私は、ご神米を下げて「ご神米を貼らせて頂きなさい」と。したら、「下の方に貼らして頂くのは、何と思うてももったいない」とこういうわけです。だから、そういうもったいないという心で貼ればいいです。そんなら額口に貼るのはもったいなくないかと。ね。額口に貼る時でももったいないという気持ちを忘れ、もう例えば手に付けたり、額口にこう付けたりするのは、まるきりバンソウコウを貼る気持ちでご神米を頂いたんではいけません。それこそ、汚いところ、下にでも付けるような心持ちで、いうなら頂かなければいけませんよ、ということを、まあお取次ぎをさして頂いたことがございましたが。
私どもが、いつもどこにあってももったいない。もう、ここならもったいないということはないということはない。ね。そういう心が、いつでもどんな場合であっても、神の中を分けておる実感という、分けて通っておるような実感。神の中にある実感というものが頂けるのじゃないでしょうか。どうぞ。